主の御名を賛美します。
東日本大震災から10年が経過しようとしています。あのおぞましい災害について、あらためて論評する必要はありません。ただ10年の間に徐々に減ってしまった、痛む命を覚える祈りを取り戻す節目として、この時を過ごしたいと思います。様々な立場ありますが、あの災害の当事者でなかった者は存在しません。誰もが自分のいのちへの衝撃を受け止めて過ごしてきました。
この当事者であるという意識が、ささげる祈りを真剣なものにします。そして真剣な祈りは、必ず神さまからの応答が与えられると信じます。わたしたちが隣り人の何かの苦しみを覚えて祈るとき、当事者でなく他人事のように祈ってしまったら、その祈りにどれだけの意味があるでしょうか?
「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」(マタイ21:22)とイエスさまは教えられます。「信じて」は「真剣で切実な思いで」と言い換えてもいいでしょう。震災からしばらくは誰もが真剣で切実に祈りました。その祈りが今なお必要だと思います。何十年経過しようと、痛みを抱えたままの人がいます。その人の痛みを放置しない祈りを取り戻しましょう。
(斎藤成二)