マルコによる福音書 16:1~8
マンガのジャンルの一つに、「異世界転生もの」があります。現世ではさえない人生を強いられてきた主人公が、異世界(魔法の世界)に転生して、不思議な力を与えられて大活躍をする、というパターンの物語です。子どもたちだけでなく、大人たちも人気があるそうです。今の人生に希望が見えず、自分が活躍できる「もしも」の世界を空想して自分を慰めている、と言っては言い過ぎでしょうか。しかし、間違いではないように思います。
仏教には「輪廻転生」という考えがあります。転生はもともと古代から世界に広く存在する死生観ですが、それを仏教式に昇華したのが輪廻転生です。現世の振る舞いに応じて次の命のステージが決まるという思想は、仏教ではとても大切な教えのひとつです。今でも日本人の40%以上が「転生」を「あると思う」と考えているという調査結果も報告されています。「異世界転生」にしろ「輪廻転生」にしろ、少なくない数の人々が「次の命」を望んだり恐れたり、あるいは夢想しながら生きているのは間違いありません。
ではわたしたちのキリスト教信仰ではどうでしょうか。身体の命が終わった後、現世に戻ってくるような「次の命」があるのか?と問われれば、それは「ない」もしくは「わからない」としか答えられません。死後のことは神さまに委ねられています。そしてわたしたちの信仰は「次の命」とは何も関わらないものです。なぜならわたしたちは「転生」ではなく、「復活」を信じる者だからです。しかもそれは「わたしの復活」ではなく、「キリストの復活」を信じるのです。キリストの復活はわたしたちにとって大切なできごとです。しかしそれは、この社会で願われている「命の転生」とは全く別のものです。
キリストの復活の朝、マリアたちはイエスさまの遺体に香油を塗るために墓に出かけました。そしてそこで主の使いと出会い、「驚くことはない。十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのだろうが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」と告げられます。ここに記されていることは単純です。十字架の処刑=この世を支配する力は、イエスさまの命を終わらせることはできなかった、ということです。つまり、神さまによるわたしたちの命とこの世界への関与は終わっていない、という宣言なのです。
さえない人生を強いられる者たちが異世界での活躍を夢想することしかできないのであれば、それこそ夢も希望もありません。しかしキリストの復活はこの世界での新たな展開、新たな希望を告げ知らせます。しかも神さまの関与を一方的に受けるのではなく、神さまと一緒にこの世界に関与していく、新しい生き方、新しい使命が備えられているのです。この神さまの関与の継続を信じるのが「キリストの復活」を信じる信仰です。この世の希望をあきらめるには、まだ早すぎるのです。(牧師 斎藤成二)