アモス書 4:12
わたしがまだ若かった時、ある会合で「8月だけ特別に平和を覚えて、他の月は平和に無関心でいるのは偽善だ」と意見を述べたことがあります。すると先輩に「それは正論だと思う。しかし、せめて8月だけでも平和のために生きてみてはどうか?」とたしなめられました。なるほど、その通りだと思いました。確かに8月以外でも平和を語り祈りもしますが、実際には、1年を通してそれはほとんどできていません。偽善的なのは自分でした。それ以来「せめて8月だけでも」という思いを強くしています。
「なぜ平和が尊く大切なのか?」という問いについて、実は聖書は明確な答えをわたしたちに示していません。もちろん「平和」という言葉は聖書の中にたくさん語られます。しかし同時に「戦争」や「虐殺」を推奨する言葉も多く記されています。パウロも武器や戦争のイメージで信仰生活を語ります(ローマ13、エフェソ6)。わたしたちが信仰の基準(正典)とする聖書は、それぞれの文書の記された時代状況に応じて「戦争」と「平和」の両方を語っています。つまり、聖書に記されている字句やエピソードが直接「平和」の正解を示しているのではなく、その言葉を読むわたしたちが、自分の置かれている生活の中で、各々の信仰による決断として「戦争」か「平和」かを選び取っていかなければならないということです。
アモスは「ユダの王ウジヤの治世」つまりBC750年前後に活動した預言者でした。もとは「テコアの羊飼い」という庶民だった人です。このアモスが北イスラエル王国と周辺諸国への裁きと滅亡を預言しました。北イスラエル王国の祭儀の乱れと戦争による社会的弱者への圧迫が理由です。しかしそれは単に北イスラエルの王さまだけが特別に不信心だったのではなく、その地の諸民族・諸国家に等しく強いられた状況によるものでした。アッシリア帝国の支配が強まる中、自分たちだけが平和でいられるわけもなく、時には弱者である民に無理をさせても戦争をせざるを得ない状況でした。戦争は民衆一人一人には人災でも、国家や共同体を維持する立場からは必然と判断されてしまうのです。祭儀の乱れや弱者への圧迫は、当時の社会状況の反映でした。
だからこそ宮廷や神殿という政治の世界から遠い、羊飼いという庶民であったアモスが預言者として立てられたのです。アモス書の有名なみ言葉に「公正を水のように 正義を大河のように 尽きることなく流れさせよ」(5:24)があります。国家の理屈ではなく、庶民一人一人に行き渡る公正と正義こそが神さまの御心なのだとアモスは語ります。アモスはこうも預言します。「私がこのことを行うゆえに イスラエルよ 自分の神に会う備えをせよ」イスラエルが会うべき神さまはどこにいるのでしょうか?それは神殿や王宮ではなく、苦難を強いられる庶民の生きる生活のただ中に「公正と正義の神」として臨んでいるのです。このように「戦時」にあって「平和」を訴えるのがアモスの預言です。
戦争が肯定される社会の悲惨さをわたしたちは知っています。そこに積み重ねられた多くの義性のゆえに、わたしたちは「平和を尊ぶ」ということを決断し、その道を選び取ります。対立を煽り、戦争を正当化する言説がはびこる今日、アモスの語った預言はその意味を重くしています。平和を求めて生きることは、わたしたちが神様に会うための備えそのものなのです。(牧師 斎藤成二)