ヨエル書 3:1~5

今年の教会総会で話し合ったことの一つは、「教会学校の中高生たちと、もっと交流を深めたい」ということについてでした。中高生たちは教会で楽しく過ごしてくれていますが、大人たちとの交流が少ないのは事実です。同じ空間で食事をしながら、名前も知り合わないでいるのは確かにもったいない気がします。しかし家族でもなく、ほとんどの大人にとっては「孫」くらいの世代格差があるので、共通の話題を見つけるにも一苦労でしょう。先ずは顔と名前を覚え合うことから始められれば、と思います。そのように過ごしていく中で、「最近の若者」と一括りにできない、一人一人の個性に出会っていきたいと願います。

わたしも最近、若者たちとどう会話したらよいか?と、戸惑った経験をしました。3月に参加したユースフォーラムには、十代から二十代の青年たちが参加していましたが、案の定、彼ら彼女らと打ち解けて会話をするのにとても苦労したのです。初対面の人が多く、またそれぞれの背景も国籍も異なっています。何よりも、親子以上に年齢差がある中で会話をしようとすると、どうしても「何かを教えてあげる」という、水平ではない関係になりがちでした。そこで交わす会話はとてもぎこちないものになります。そこで、わたしは無理に会話に参加することをやめて、若者たちの言葉に耳を傾けるだけにしました。結果、それはわたしにとってとてもよい時間になりました。

何気ない雑談も、真剣な討論も、「若者たちはわたしとは別の視線を持っている」と感じさせるものでした。かと言って、全く理解できないでもありません。知識や経験はわたしの方が多いですから、何かのアドバイスはできるでしょうし、実際そうしたい気持ちも起こりました。しかし同じ高さに立てていない中でするアドバイスは結局、上から目線のウザい説教にしかなりません。それよりも先ず、若者たちの視線とその先にあるものを、彼ら彼女らの言葉に耳を傾けることによって、自分が若者たちから学び取ることが必要なのです。その積み重ねにより、若者たちの立つ高さを共有できるようになり、その視線の先にある未来、つまり幻に向かって言葉を交わせるようになるのでしょう。

標題の聖句は、イスラエル王国分裂後のユダ王国の民に向けて語られた預言です。ユダの民が神さまの怒りを買い、「かみ食らうばった」の災いによって大きな苦難を与えられること、そして悔い改めにより赦され、神さまの霊を注がれ、未来に導かれていくことが預言されています。「その後私は、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る」ペンテコステによく用いられる聖句でもあります。神さまの霊により、それぞれに新たな視線が与えられることが述べられています。

ここで大切なのは「神さまは、老人と若者とでは、見せたいものが異なる」ということです。大きな苦難から再起していく過程で、老人たちは若者たちにたくさんのアドバイスをしたくなったでしょうし、実際していたと思います。しかしいくら老人たちが自分と同じ夢に若者を導こうとしても、それは神さまの御心ではありません。若者には若者の幻があります。その幻が少しでも現実になっていくように、先ずは若者の発するいろいろな声に耳を傾けることを大切にしたいと思います。若者の幻をサポートすることを夢見る老人になれたら最高ですね。(牧師 斎藤成二)