ローマの信徒への手紙 12:9~21

国政選挙が行われるときになると、各政党の出している「マニフェスト(manifesto)」が話題になります。マニフェストは「政策指針・選挙公約」という意味です。どの政党も、とても魅力的な言葉が並んでいます。しかし残念ながら、与党野党を問わず、そのマニフェストがきちんと実行されているとは思えない社会の状況があります。日本の政治におけるマニフェストは空文となっていることを残念に思います。せいぜい「努力目標」くらいに考えておく方がよさそうです。

さて、わたしたちが礼拝で用いている聖書(聖書協会共同訳)ではこの聖書箇所に「キリスト者の生活指針」という小見出しが付されています。「指針」とは歩むべき方向ということです。しかも「生活の指針」ですから、とても実践的な教えです。この教えは全体として高い倫理観や道徳観に貫かれていて、キリスト者のあるべき生き様を示す高尚な言葉が続きます。ここに記されていることがキリスト者として実践されるべき正解の生き方だと、これを記した使徒パウロは考えました。なるほど「キリスト者のマニフェスト」です。しかし、やはり実践・実現するのはなかなかハードルが高そうです。

このような教えを聖書から読み取るとき、意識すべきことが二つあります。一つは、これらの言葉は約2000年前に実際に生きた人々に向けて語られた言葉であることです。つまり観念的理念的な言葉ではなく、実際に面と向かう人間関係を念頭に置いた教えであるということです。二つめ、それゆえにこれらの教えの実践は救いの条件ではなく、救われた結果として与えられる恵みの賜物であるということです。「この教え全てをマスターし実践できたから神さまに救ってもらえる」ということではありません。限られた人間関係の中で、その時々の状況に従い、この教えのひとつでも実践することができたなら、それが神さまがわたしたちと共にいることの証拠となるのです。なぜなら、その実践は神さまのサポート無しには為し得ないからです。

もちろん、この教えに常に立脚して生きることを志すのはすばらしいことです。しかしそれを自力で実践するにはかなり強い精神力や行動力が必要です。そのような高い能力を持った者だけが実践できることを並べて「キリスト者のマニフェスト」といわれても、多くの人は困惑するだけでしょう。そのように受け止めてしまったら、この聖書は現実味のない空文となってしまいます。しかし、「キリスト者が実践すべきこと」ではなく、「神さまが実践させてくれること」と理解するならば、ハードルの高い教えに困惑する必要はありません。これらの教えは、神さまがわたしたちの日常に共にいることを示すための「神さまのマニフェスト」なのです。

この聖書にあるたくさんの項目にはさまれて「霊に燃えて」(11節)とあります。「心(魂)を奮い立たせて」とも訳すことができます。では、燃やしたり奮い立たせたりするのは誰でしょう?自分自身でしょうか。そうではありません。キリスト者の霊は神さまから与えられるものです。キリスト者はペンテコステの聖霊を受け、新しい霊によって生かされている者たちです。この霊を燃やし、魂を奮い立たせてくださるのは、神さまです。わたしたちの日常の中で、神さまがこのマニフェストを実践しようとお働きくださっているのです。(牧師 斎藤成二)