マルコによる福音書 12:41~44
3月末に2泊3日で沖縄・宮古島を訪れる機会がありました。マイノリテイ宣教センター主催の「マイノリテイ ユースフォーラムin宮古島」という集まりに、スタッフとして参加することができました。宮古島は人口約5万5千人、太平洋と東シナ海に囲まれた南国の小さな島です。海洋リゾート地として有名ですが、同時に自衛隊のミサイル基地やレーダー基地、空港の軍事利用化の動きなど、平和問題の最前線でもあります。その島に20名あまりの様々なルーツを持つ青年たちが集まり、キリストの福音と平和の課題を共に考え、これからの生き方を模索する時間を共有しました。
基地や戦争の問題はあまりに大きな課題です。今回参加した若い方々に限らず、わたしたちは具体的にどう向き合っていくのか、何をしたらよいのか、簡単に判断できるものではありません。一つ一つの現実に直面する度に、沈黙して立ち尽くしてしまいます。わたしはこのフォーラムの中で、そのような沈黙を強いられる時間の重さと大切さを感じ取りました。
イエスさまがエルサレムに入城した後、神殿の献金箱の前で、人々が献金をささげる様子を見ていました。このエピソードは多くの場合、わたしたちの献げる献金、あるいは奉仕のあり方を示すものとして理解されてきました。曰く、「献げた金額や奉仕の量は問題ではない。それぞれの持てる精一杯を神さまに献げることが尊いのだ」と。おそらくこのエピソードを福音書に編集した意図としては、そういうことなのでしょう。しかし聖書にはこのように記されています。「この貧しいやもめは、献金箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。乏しい中から持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」生活費を全部献金してしまったら、この人は明日からどうやって生きていくのでしょう?この貧しいやもめの行為は、もう生きていくことをあきらめた、諦観の境地によるものだったのではないでしょうか?
イエスさまが弟子たち言われたこの言葉は、事実をそのまま述べたに過ぎません。ここに命を放棄せざるを得ない一人のやもめがいる。この現実をただ弟子たちに告げているに過ぎません。その現実を目の当たりにした弟子たちは、誰一人として言葉を発することができなかったでしょう。ただ重苦しい沈黙だけがその場を支配したのだと思います。イエスさまはきっと弟子たちに、この悲しい現実に一緒に向き合い、一緒に悩んでほしかったのだろうと思います。
やもめの命の問題も、宮古島の基地の問題も、簡単に答えられるものではありません。イエスさまはこのような厳しい問いを突きつけられているのでしょうか?それは違います。このような問題を起こしているのは人間社会です。イエスさまの時代のエルサレム神殿も現在の宮古島の基地も、人間の覇権争いの道具です。そしてその悪を目の前にして、何もできず語れない弱い者たちが苦しみの沈黙を強いられています。
しかしその沈黙の間、イエスさまはどこにも行かれず、わたしたちの隣にいてくださると、このエピソードは告げています。沈黙を強いる闇の力から復活されたイエスさまが、その沈黙をやがて歌に変えてくださる(讃美歌21・575番)ことを信じて歩みましょう。(牧師 斎藤成二)