コリントの信徒への手紙Ⅰ  15:50~58

8月末、所用と休暇を兼ねて久しぶりに札幌を訪れました。そして「札幌芸術の森」の野外美術館に行くことができました。ここを訪れるのは二回目です。一回目は札幌の教会にいた時、2002年頃だったと思いますから、実に20年以上ぶりの訪問でした。目的は2回とも同じです。彫刻「四つの風」を鑑賞することです。この作品については、少し前の礼拝メッセージでも少し紹介しました。アイヌ民族の彫刻家・砂澤ビッキさんによる作品で1986年に野外美術館に設置されました。風を具現化する四本の柱を、東西南北それぞれの方向に向けて立てたものです。

少し長いですが、設置の時のビッキさんの言葉を引用します。「私はよく自然の中を彷徨するけれども、自然を探求したり理解しようとはあまりしていない。自然と交感し、思索する。そこに、あからさまな自己が見えてくる。人が手を加えない状態、つまり、自然のままの樹木を素材とする。したがってそれは生きものである。生きているものが衰退し、崩壊してゆくのは至極自然である。(自然は)それをさらに再構成してゆく。自然は、ここに立った作品に、風雪という名の鑿(のみ)を加えてゆくはずである」

この言葉通り「四つの風」は風雪にさらされ、2013年までに4本のうち3本が倒壊しました。全てが倒壊する前にもう一度見ておきたいという願いから、今回の訪問となりました。きっとボロボロだろうという予想に反して、残された一本は「意外としっかり立っている」という印象でした。その姿に励まされながら帰路につくことができました。
○わたしは市民運動の仲間と共に、街頭に立って平和や人権の課題を訴える取り組みを続けています。大阪や神戸の繁華街では、チラシを渡そうとしても受け取ってくれる人は200人に一人いればよい方です。これは大げさに言っているのではありません。実際に数えてみました。土曜日の午後の時間、5分弱の間に200人以上の人が目の前を通り過ぎます。そして多くの人が、通行を妨げる障害物を見るような眼差しで、わたしたちを避けて通ります。その視線に晒されるのには慣れましたが、声を大きくして訴えても誰も耳を傾けてくれないことの徒労感は残ります。そのような時に思い出すのがこの「四つの風」の姿です。

ビッキさんは「生きているものが衰退し、崩壊してゆくのは至極自然である。それをさらに再構成してゆく」と語ります。平和や人権の尊重を訴えようと、自らを柱のようにして立ち続けたとしても、社会の厳しい風雪にさらされて、その願いや訴えは実を結ばずに朽ち果ててしまうように思わされます。しかしそこに柱がなければ、その風雪は何も問題が無かったかのように現状を肯定したまま吹き抜けてしまいます。その勢いを少し弱めるためだけであっても、柱として立つ意味はあると思います。そして、わたしたちの思いや願いが届かないまま朽ち果てても、別の姿で再構成されるでしょう。

わたしたちキリスト者は、そこにイエスさまの十字架と復活の姿を見いだします。「ラッパが鳴り響くと、死者は朽ちない者に復活し、私たちは変えられます」ビッキさんが感じ取った自然は、わたしたちにとっては神さまの創造と救いのみ業です。朽ちても希望は輝き続けます。(牧師 斎藤成二)