マタイによる福音書 7:15~20

この夏は季節の果物をたくさんいただきました。その美味しさに感激しつつ、「この頃、不味い果物に出会わなくなったな・・・」と思いました。どの果物を食べてもみんな甘くて美味しいのです。昔はスカスカの西瓜や熟しても甘みのほとんどない桃などに時々遭遇していました。冬には顔が歪むくらい酸っぱいミカンがあって、そういったハズレに当たることがないようにドキドキしていたものですが、そんな果物はもう売っていないようです。

残念な果物が店頭から消えたのは、消費者がより美味しいものを求めることと、その期待に応えようとする生産者側の努力があります。品種改良を重ね、栽培の技術も進歩し、さらに手間をかけて育成して、美味しい果物がわたしたちのもとに届けられています。その努力のおかげで、わたしたちは美味しく果物を味わっています。

その一方で、そのような人間の努力は果物本来の持ち味を変えていることでもあります。人間にとって美味しいかどうかは、その果物にとっては本質的な問題ではありません。そこに人間が自分たちの欲求のために手を加えて、半ば強制的に美味しい果物とするのは、自然本来の姿に反するという見方もできます。しかしそう言ってしまうと身も蓋もないので、聖書の語る創造論に立って、「神さまの創造の業に人間が共に働いた結果」として、果物がとても美味しくなったのだと受け止めましょう。

さて聖書には「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。・・・すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」というみイエスさまの言葉があります。これはシラ書という旧約聖書の外典(聖書編纂の際に、正典から外された文書)にある格言からの引用です。イエスさまはこの言葉を「偽預言者」にだまされないように注意喚起する意図で引用されました。

イエスさまは、預言者を自称する者たちが真実に神さまのみ言葉を預かる者であるか?その言葉は聞くに値するかどうか?を冷静に判断するように求められます。しかしその判断は難しいです。イエスさまの時代は、偽預言者を警戒すべき厳しい状況にあったと思います。しかし現代に生きるわたしたちにとっては、他者の在り様を審査するような意味ではなく、自分が良い実を結ぶ者かどうかを戒める言葉として受け止めたいと思います。

わたしたちは隣人にとって美味しい「良い実」を結ぶ「良い木」として立てられているでしょうか?わたし自身のこれまでの歩みを振り返ってみると、恥ずかしながら、わたしはとても自分を「良い木」であるとはいえません。隣人を喜ばせる良い実を結ぶ力はないのです。しかしそんなわたしにもキリストの福音は届けられ、神さまはわたしに関わり続けてくださっています。

中身のないスカスカの西瓜のような、あるいは食べたら顔が歪むような酸っぱいミカンのような人間でも、神さまの御心により長い時間と多くの手間をかけて、甘くて美味しい果物に生まれ変わります。そのように神さまはキリストによってわたしたちに関わり続けられ、わたしたちもまたそのみ業に応えようと生きています。そのようにして、切り倒されて火に投げ込まれるはずのわたしたちは、隣人のために味を分かち合える存在へと変えられていくと信じます。(牧師 斎藤成二)