マタイによる福音書  7:13~14

毎年の健康診断の結果を見比べると、この3年間、わたしの体重はほとんど変化がありません。今のところ病気の兆候もないので、これは感謝すべき状態なのでしょう。しかし毎年、夏になって服装が軽くなると、どうしても自分の体型が気になります。鏡を見ながら「もう3㎏痩せたら格好良く見えるだろうか?」と思いながら過ごしています。格好良い姿を誰かに見せる必要もないのにおかしなことだ、と自嘲しています。本当に削り取っていくべきはお腹の脂肪ではなく、自分を格好良く見せようとする虚栄心であることを、もっと自覚する必要がありそうです。

わたしたちは、虚栄心だけでなく、いろいろなものを抱えて生きています。知識や技能、経験や実績、それらを得るために演じてきた自分の役割、その役割にもとづいて結びついている人間関係、そしてその結果得られた地位や財産やプライドなど・・・。それらは生きていく上で必要だから獲得してきた大切な宝ものなのでしょう。それだけに手放すことが難しくなります。しかしその宝ものへのこだわりは、いつしか持ち主の命を守るものではなく、持ち主をしもべにして命の主役を奪ってしうものになりかねません。わたしたちは時々、自分にとって必要な宝ものは何か?をふるいにかける必要があります。

たくさんのものを抱えて生きているわたしたちにイエスさまは「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道も広い。そして、そこから入る者は多い。命に通じる門は狭く、その道も細い。そして、それを見いだす者は少ない。」と教えられました。多くの場合このみ言葉は「楽な道を選ばないで、困難が多くあっても進む意義のある道を選びなさい」といった教訓として理解されています。これから人生の進路を選び取っていく若い世代にとっては大切なメッセージです。しかしある程度の年齢と経験と多くの苦労を重ねた人、あるいは人生の先行きを選び取る余地の少ない人生を余儀なくされている人にとっては、「安易な道を選ぶな」という教訓はあまり意味を持ちません。そのような方々にとっては、この教えはむしろ「もう無理をしなくていい。重荷を下ろしていいんだよ」というメッセージなのだ、とわたしは思います。

たくさんのものを抱えていれば、重くて足取りも遅くなります。他人との衝突を避けようとすれば、どうしても幅の広い道を歩きたくなります。しかし、虚栄心やプライドや不要な人間関係などの大きく重たい荷物を放棄すれば、今までは気付きもしなかった狭い道を発見できるかもしれません。積み重ねてきた大切なものではあるけれど、それが今も必要なものであるかどうかを見直したとき、わたしたちは重荷を下ろして楽になり、新しい可能性の道を歩みだせるのではないでしょうか?

その道の先にある門こそ、命に通じる門であると、イエスさまは教えられます。このみ言葉は「安易な道を選ぶな!」ではなく「無理せず荷物を降ろしてごらん」という神さまの愛のメッセージなのです。イエスさまは「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11)とも告げられています。新しい道を発見し、その先にある狭いけれど命を豊かにする門をスムーズに通れるくらい、軽い心に変えられていきたいと願います。(牧師 斎藤成二)