サムエル記・上 2:1~11

みなさんは「世界」という言葉から何を連想されるでしょう?世界地図でしょうか?宇宙に浮かぶ地球の姿でしょうか?戦争のニュースでしょうか?いつか訪れたい外国の風景を思い浮かべるかもしれません。それぞれの個性と世界観を表す、意味のある連想ですね。このように、わたしたちにはたくさんの「世界」があります。しかしその多くは、今の自分の日常とは別のものとして考えてはいないでしょうか?

わたしたちは世界教会協議会の呼びかけに応え、毎年10月第一週の主日を「世界聖餐日(World Communion Sunday)」として礼拝を献げ、聖餐式を守っています。世界中の多くの教会が同じようにこの日を覚えて聖餐式を守ります。そのイメージは「国境を越えてみんなで一緒に食事を分かち合う」姿です。この聖餐式を通して、地域や教派が異なっても、キリストを信じる者たちは一つの群れ(Community)であることを覚えます。世界聖餐日は年一回ですが、キリストにおいて一つである教会の一致はいつも保たれています。キリスト者にとっての「世界」は、けっして日常と別のことではありません。

聖書の中で最初に「世界」という言葉が登場するのは旧約聖書のサムエル記です。預言者サムエルの母ハンナが愛する幼子サムエルを祭司に託す場面で祈りをささげました。その祈りは「ハンナの祈り」と題され、サムエル記上2章にあります。その中でハンナは次のように詠います。「地のもろもろの柱は主のもの。主はそれらの上に世界を据えられました」ここでハンナが世界に言及しているのはとても興味深いことです。なぜならハンナは自分を取り巻く身近な人間関係の確執に悩み、いじめられて悔し涙を流しながら神さまに祈り、ようやく与えられた子どもを神さまとの約束を守って手放す、という心境の中でこの祈りを詠っているからです。およそ世界的とは言えない、プライベートで感情的な問題を背負う中で、世界とそのすべてを統べたもう神さまの姿を意識しています。

おそらくこの時代(BC8世紀頃)のイスラエルの民にとっての世界とは、メソポタミアと地中海に挟まれたごく限られた地域だけだったでしょう。その狭い範囲に様々な民族・部族がいて、その地の覇権を争っている状態でした。士師記を読むと、イスラエルの民もそれらの人々と多くの戦争を経験したことが記されています。

このような状況において理解すべきことが二つあります。一つは「戦争=悪」と単純化できないこと、もう一つは民衆一人一人にとっての世界は、戦争によって嫌でも意識せざるを得ない身近な領域であったことです。戦争はそれぞれの民族・部族が自分たちの生活のために、まさに命がけで取り組まざるを得ない事業でした。そしてその戦争は直接的に民衆の生活を左右します。だからハンナは、とてもプライベートな出来事の中にも、神さまににささげた我が子が用いられていくこれからの世界の姿を意識したのでしょう。

生活の糧を求めて争い合う時代にあって、ハンナはその土台にある世界を、そしてその世界を創造された神さまを意識しました。現代の世界に生きる人間たちたちも、富や資源を争い合って生きています。世界の正体が実はわたしたちの日常であることに気づきます。その世界の中で平和を祈り求めたいと思います。世界の教会が一致して聖餐を守る業に込められた祈りはきっと、具体的な実りをもたらすでしょう。(牧師 斎藤成二)