ルカによる福音書 16:1~8

歴史上、偉人と呼ばれる人物はたくさんいます。しかし偉人だからといって、その人物の全てが偉大というわけではありません。逆もまた同じです。目立つ失敗や振るまいだけを取り上げ、その人物を希代の悪人と決めつけてしまうことがあります。日本史でいえば明智光秀や石田三成、世界史ではフランス革命のルイ16世やマリーアントワネットなどがその例です。丁寧に調べれば、当時の事情や悪人ではない側面も見えてきます。しかし多くの場合、印象だけが一人歩きをして、冷静な人物評価はなされていません。偉人であるか悪人であるかは時代と評価する人によって変わる曖昧なものです。長い時間をかけても不確かなのですから、その場で下される評価はもっと不確かでしょう。

これはわたしたち自身のことにも言えます。わたしたちはみな誰かから何かの評価を受けながら生きています。それらの評価がわたしたちの心と日常生活に与える影響は決して小さくありません。その評価が不確かであることを、歴史はわたしたちに教えています。しかしわたしたちは自分への評価にどうしても囚われます。不確かな評価だと思いはしても、それを無視し続ける強さを持つ人は少ないでしょう。褒められるならまだしも、批判されることによって現実的な不利益を被ることもあります。

ルカ福音書は「不正な」との悪い評価を受けたある管理人の振るまいを描きます。確かにこの管理人の行為は「不正」との印象を与えます。しかし注意深く読むとこの聖書は、なぜこの管理人が不正と呼ばれているのかを明確にしていません。「財産の無駄遣い」は告げ口した者の見方であって、管理人は自分なりに正しい管理をしているつもりだったかもしれません。しかしどちらにも取れることを悪いと決めつけられてしまったら、事実がどうであれ、この管理人はそれを覆すことはできないのです。そのように考えると、この管理人を不正と決めつけてこの聖書を読むことはできません。そもそもこの聖書の8節後半以降は初代教会がたとえ話に無理に説教を加えたもので、13節までをひとまとまりとしてしまうと筋の通った理解は不可能になります。先ずはイエスさまがお語りになった8節前半までのたとえ話の意図を受け止めましょう。

このたとえ話は、イエスさまの宣教の姿を映し出しています。主人=神さまの財産を無駄遣いするとはつまり、神の国の門戸を広げ、恵をより多くの人に分かち与えることを意味します。それまで祭儀や律法という手続きを経てしか与えられなかった神さまの恵みを、イエスさまは誰にでも広く行き渡るように宣教しました。律法学者や祭司たちたちからすれば、イエスさまの宣教は神さまの救いを無駄遣いしているように見えたでしょう。なので律法学者や祭司長たちはイエスさまを「不正」と告発して、十字架に追いやったのです。

このようにイエスさまも不当な評価を受け苦しまれました。しかしその評価に抗弁するのではなく、まったく異なる仕方でその評価に対抗されます。「主人は、この不正な管理人の賢いやり方を褒めた」神さまはただやり方を褒めたのではなく、生きることに辛さを感じている人々の重荷を軽くし、共に生きる道を拓かれたことを褒められたのだと思います。この世の不確かな評価に悩まされるわたしたちも、イエスさまからの、この招きに与っているのです。
(牧師 斎藤成二)