ヨハネによる福音書 5:1~9
新型コロナウイルスの法的な位置づけが変更され、世の中はコロナ禍がすっかり収まったかのような雰囲気になりました。喜ばしいことではありますが、コロナ禍が終わったわけではありません。今でも感染者は出ているし、外国では新たな感染拡大の危機も訴えられています。未だに後遺症で苦しんでいる方々もおられます。「コロナが終わった♪」と浮かれる中で、コロナを「過去」にできないでいる方々を見失わないようにしたいと思います。
コロナ禍の3年間で、世界には「リモート化」という新しい環境が普通となりました。そして現在はAI(人工知能:Artificial Intelligence)が時代の最先端となっています。わたしもAIの性能のすごさに驚きますが、同時に「もう追いつけない」というあきらめ感を持ちます。わたしもいよいよ「情報弱者」の仲間入りをしました。このまま皆が先を走っていく後ろ姿を眺める人生が待っているのでしょうか?
わたしたちの社会はこれまでも、「先だって進むことができる人」がより多くの利益を享受できる社会でした。それはほとんどの人にとって、決して幸せなことではありません。それがリモート化やAIでさらにふるいにかけられているように感じます。率直に言えば、時代の先を読む感覚に優れている人だけが生き残ることができる社会なんてごめんです。時代に合わせて進みたくても進めない弱さを持つ人々を、そのまま放置してしまう社会に暮らしたくありません。
「ある時間になると、主の天使が池に降りて来て水を動かしたので、水が動いたとき、真っ先に入る者は、どんな病気にかかっていても、良くなった」という不思議な伝説のゆえに、ベトザタの池を囲む回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていました。水が動くとその大勢の病人や障がい者たちが互いを押し除け合いながら池の中をめざして競走するのです。たった一人が勝者となって癒しの栄冠を受け、その他大勢は敗者としてその姿をさらしながら、次のチャンスまでじっと耐えて待つのです。周りにはその競走を見物する人々もたくさんいたことでしょう。わたしにはとてもおぞましい悲劇的な風景に思えます。その社会の流れに乗れなかった最も弱い者たちが、最後の希望をかけて争っているのですから。
そんなベトザタの池のほとりでイエスさまが出会ったのは、38年間も病気に苦しんでいる人でした。かなり長い年月、自分より後からやってきた者が先に癒やされて去って行く、そんな悔しさを何回も味わいながらの人生だったと思います。この人はイエスさまとの出会いによって癒やされました。医学的な治癒が与えられたかどうかはわかりません。しかしキリストとの出会いはこの人を「病気になったのはわたしの罪のため」という思い込みから解放しました。自分の頑張りではなく、神さまの一方的な招きが、彼を次のステージに立たせたのです。
教会もまた、時代に遅れまいとリモート宣教に力を入れ始めました。しかし主の身体なる教会の使命は時代の先端に立つことではなく、時代の進化の中でなお苦しんでいる人に出会い続けることを忘れないでいたいと思います。どれだけコロナによって時代が変えられ、AIが進歩しようが、神さまの御心はいつも、時代の先頭を競う競走に勝てない人々と共にあると信じます。(牧師 斎藤成二)