マルコによる福音書 1:29~34
2月のイベントといえば節分とバレンタインデーですね。どちらもすっかり商業化されていますが、バレンタインデーには少しだけキリスト教の香りが感じられます。では節分はどうでしょう?実は節分もほんの少しだけ聖書と接点があります。それは豆をぶつけられるかわいそうな怪物「鬼」の存在です。
キリスト教ではあまり馴染みのない「鬼」ですが、実は日本語聖書に「鬼」が登場していた時代があります。1887年に発行された文語訳聖書では、現代語の聖書で「悪霊」と訳されている語が「鬼」または「悪鬼」と訳されていました。今号の聖書箇所は「イエスさまざまの病を患ふ多くの人をいやし、多くの惡鬼を逐ひいだし、之に物言ふことを免し給はず、惡鬼イエスを知るに因りてなり」とあります。現代語の聖書に慣れたわたしたちには違和感しかありませんが、明治期の人々にとっては、この「悪鬼」という言葉はわりとイメージしやすいものだったようです。
明治期はまだ聖書の示す内容を的確に日本語で表すことが困難であった、という事情があります。そこで聖書の翻訳者たちが漢語(中国語)の聖書を参考に用いたことにより、その訳語がそのまま輸入されることになりました。意味においても「悪鬼」は決して的外れではありません。仏典をサンスクリット語から漢語に訳す際、「畏るべきもの、威力あるもの」を表すサンスクリット語に「鬼」という漢字を当てました。その意味は「衆生を仏陀から遠ざける何か」です。これを「人々を神さまから遠ざける何か」と理解すれば、聖書の悪霊を「悪鬼」と呼ぶことも大きな間違いではなさそうです。「鬼」はもともとは怪物ではなく、霊的な存在だったのです。
では節分における「鬼」は何かというと、それは「季節の変わり目に退場させられるもの」です。節分は中国で編み出された陰陽説という世界観がその根幹にあります。季節の変化も陰と陽の移り変わりであり、季節が変わる時を「節分」と呼びます。春の節分では冬から春へ、つまり陰から陽への節目の時にあたり、陰の象徴の一つであった「鬼(隠=陰)」を退場させるという考えがあります。あくまで季節替わりのルーティンであり、鬼は悪者ではありませんでした。新しい季節の到来の時に、そこに居座ってはならないもの、それが鬼の正体です。そこに仏教思想が習合して、鬼は常に歓迎されない存在となりました。
イエスさまの宣教の始まりと共に、人々を苦しめる悪霊はもとの居場所から追い出されていきます。新しい時が始まるからです。「悪霊に取りつかれた者」について聖書では精神障がいを患った人を表している場面が多いようです。そうだとすれば、悪霊はその障がいそのものことではなく、その人を取り巻く環境のことではないでしょうか?精神障がい者はその障がいを理由に見下されたり、お荷物扱いされたり、差別されたりされます。そんな環境に生きざるを得ない人々のことを聖書は「悪霊に取りつかれた者」と表現しているように思います。障がい者に限らず、社会において生産性の低い人々を取り巻く環境は、まさに悪霊に取りつかれた状態と言えるでしょう。つまり悪霊は当人ではなく、周囲の人々の心の中にいるのです。文語訳聖書はそれを悪鬼と呼びました。イエスさまはそのような鬼を退場させるために、今も教会の姿を取って宣教されています。やはり鬼は福(福音)によって追い出されるものだったのですね。
(牧師 斎藤成二)