ローマの信徒への手紙 10:5~13
キリスト教教理を確立したことで有名な教父(初期キリスト教の思想的指導者)の一人、アウグスティヌスはその著書「告白録」の中で自らの回心を振り返り、次のように祈っています。「古くて、新しい美よ、遅すぎました。あなたを愛することが、あまりにも遅すぎました。あなたはわたしの中にいましたのに、わたしはあなたをわたしの外に、探し求めていました」これは「アウグスティヌスの痛恨の祈り」と呼ばれています。「古くて、新しい美」とは人が最も尊ぶべき最良の価値、つまり真理や徳や善のことですが、アウグスティヌスはここに神さまを見ています。アウグスティヌスはキリストを信じる前、この世で誉れある人物になることを願いつつ、その一方で欲望に負けていく自分の姿に苦しみました。弁論術の技術を習得する一方で、マニ教や占星術などに最良の価値を見つけようとしました。そのような苦闘の末、32歳でキリスト教への回心に導かれました。
アウグスティヌスはAD354~430にかけ、西ローマ帝国の世界で生きた人です。この時代はキリスト教が帝国内の主流派の地位を揺るぎないものにした時期であり、しかし同時にその帝国がゲルマン人たちの攻勢にあって滅びつつある時期でもありました。アウグスティヌスは生涯の後半を故郷に近い北アフリカのヒッポで教会の司教として過ごしましたが、その地もゲルマン人の侵入に悩まされ続けていました。若い時代は自らの生き方に悩み、キリスト教会の指導者となってからは異端的信仰との闘いや政治的な動乱に苛まれる人生を過ごします。アウグスティヌスの生涯は穏やかだった時がほとんどなかったのではないでしょうか。それゆえにアウグスティヌスにとっての回心は、一時的な出来事ではなく、生涯をかけて神さまと向き合い、自分を神さまに向かって高めていくものでした。
アウグスティヌスは、回心について次のように記しています。「回心とは悪徳の不節制から離れ、徳と節制によって自分自身へ高まることに他ならない」ここに「痛恨の祈り」の意味も見えてきます。「自分自身へ高まる」とはつまり、「あなた(神さま)はわたしの中にいました」につながります。「悪徳の不節制」とは享楽的な生活を思い浮かべますが、それだけでなく、神さまから人間を引き離すもの全てと理解しましょう。アウグスティヌスがそうであったように、わたしたちもまた神さまから引き離される様々な欲や出来事や環境に置かれています。しかし、どれだけ悪徳が私たちを誘惑し、あるいは自分の毎日が壊される危機が迫ってるとしても、神さまは「わたしの中にいる」です。
「言葉はあなたのすぐ近くにあり、あなたの口に、あなたの心にある」私たちはどうしても、神さまは自分の「外」にいると思いがちです。たとえすぐ隣りにいると感じても、神さまはわたしたちの外側から見守っているようにイメージしています。しかしアウグスティヌスが気付いたように、実は神さまはわたしたちの「中」にいて、常にわたしたちを支えていてくださる方だったのです。一人で悩み、一人で行動し、一人で何かを成し遂げたと思っていても、実はそこに神さまの支えが添えられていたのです。そのことに気付いた者がキリスト者です。回心とはその気付きに始まり生涯をかけて行われる、神さまとの二人三脚の歩みのことなのです。(牧師 斎藤成二)