マタイによる福音書 20:1~16
ある町の小学校に一人の男の子が転校してきました。転校初日の自己紹介の時、彼は不思議なものを目撃します。身長20㎝くらいでくたびれた背広を着た男が、ボサボサの髪と疲れ切った顔をして、背中から生えた羽でゆっくりと空中を漂っていました。その男こそが、ビリの人しか出会うことのできない、びりっかすの神さまだったのです・・・。ファンタジー作家・岡田淳さんの代表作「びりっかすの神さま」です。この本は児童書ですが、しかし世代を超えた価値を持つとても優れた作品です。大人が読んでも十分読み応えがあります。
この作品の中で訴えられていることの一つは「がんばる」ということの意味です。この主人公(転校生)のお父さんは、仕事を頑張りすぎたために過労死をしています。そしてそのことを悲しむお母さんは主人公にこのように語りかけます。「もしがんばるっていうことが、お父さんみたいに生きるということだったら、・・・ひとに勝つことが、がんばるということだったら、お母さんはあなたにがんばってほしくなんかないのよ」そんな主人公が転校してきたクラスは、テストの成績順に座席が決められ、何においても友達に勝つためにがんばることを常に求める先生のクラスでした。そんなクラスに転校した主人公と、そこに漂うビリッカスの神さまの姿は、わたしたちにがんばることの本当の意味を問いかけます。
この作品は「がんばる」ことのすべてを否定しているものではありません。「がんばる」という言葉があふれるこの世にあって、大切なひとやものを見失わないためのメッセージが、この作品に込められています。
わたしたちの中には、がんばれる人とがんばれない人がいます。がんばって結果を出す人とがんばっても結果を出せない人、と言った方がいいかもしれません。一つの仕事の中で、一つの学校の中で、一つの家庭の中で、一つの地域の中で、そして一つの教会の中で、がんばれる人とがんばれない人がいます。そして「がんばれ!」という励ましは「結果を出せ!」という呪文となって、みんなを縛り付けます。「がんばれ」と言う人と言われる人、がんばれる人とがんばれない人はそばにいるけれど、実は同じ場所、同じ地平に立っていないのです。
「ぶどう園の労働者」のたとえでは、夜明けと共に働き出した人と夕方の1時間だけしか働かなかった人の賃金が同じ1デナリオンでした。実際に朝から辛い労働に従事している人たちにとってはとんでもない話です。いくらイエスさまのお話でも納得できないでしょう。しかしこのたとえ話のポイントは、頑張りの量や能力の優劣に関わりなく、みんなが同じ地平に立つことの大切さにあります。そのために「先にいる者が後になる」必要があります。後にいた者の地平に立てたとき、いままで見えなかったものが見えてきます。それは、弱々しいけれどみんなをつなぐびりっかすの神さまのように、わたしたちをつなげてくれる神さまの御心です。(牧師 斎藤成二)